ガヤガヤBARスタッフの駿介です。
昨日、スナックCandy名古屋(ガヤガヤBARとは別に僕がたまにたっているお店!)のお客さんからラップバトルの歴史をほんの少し教えてもらいました。
思えば僕は、ラップを聴くのは好きなのに
バトルを観るのがすごく苦手。
その話自体は興味津々だったし、また聴きたいんだけれど、
家に帰ってもう一度バトルを個人的に観ようとしたけど、途中で観るのをやめてしまった。
ラップバトルを観ようとすると何度もこうなる。
なぜなんだ?ってしばらく考えてみたけど、
多分僕はラップに
「自己表現」としての煌めきを感じていて
その煌めきが「負け」に穢されるのが寂しいんだ。
お笑いも一緒。
賞レースよりも
単独ライブやラジオで
その人の表現を存分に浴びたい。
たぶんこれは、
友達がいなくて誰とも喋れなかった時に育まれた
「表現したい欲」
と
「誰かに伝わる喜び」
が
僕の生きていく、かなりの根源になっていて、
僕にとってはこれらを「生きていくこと」そのもの置き換えられる。
表現の勝負(表現の負け)は、
僕にとっては、生命線を絶たれるような恐怖を感じる。
まぁ、かといって、
ラップバトルを忌み嫌うわけではなく、
昨日みたいに教えてもらいながら見る分にはすっごくアガるし、
M-1グランプリだって、R-1だって、キングオブコントだって貪るようにみている。
でも、やっぱり、勝敗が決まるシーンだけはちょっとだけ目をつぶってしまう。
とはいえ、
そういう「戦い」が世の中に知られるのに手っ取り早いというのはわかっている。
現にテレビはM-1決勝進出者で埋まっているし、
僕の好きなオードリーもCreepy Nutsもそうして世の中の目に触れ、僕にまで届いた。
思えば、大谷翔平だって、岸田文雄だって、織田信長だって、野球や選挙や戦といった、戦いを無くしてここまで有名にはなっていない。
戦いは人を惹きつける。優れているものがわかりやすく輝く。
でも、僕はどうしても、「表現」の優劣だけは、心が苦しくなる。
思えば、「遊びまみれ」や「ガヤガヤBAR」でクイズや大喜利の大会がよく行われるけど(こんなこと言いつつ自分も戦いの場を開いてるじゃん)、
僕が司会としてやることは、とにかくフォロー。
点数や正解にはつながらなかったかもしれないけど、他の「良さ」があるよ!ってことや
「こういう面白さもあるよ!」ってことを伝える役割。(面白さって不思議で、「面白くない」が「面白い」になることだってある)
だから、手前味噌ですが、
遊びまみれやガヤガヤBARの対決は、
もし仮に僕みたいな性格の人がいても、大丈夫だと思います。
こんな人間が主催をしているので。
そして、最後にこれだけは言っておきますが、
フォローしようとしてミスしたわけでもなく、
「表現」を簡単に傷つけちゃう人は苦手です。
なるべくみんなで、その人の「表現」を尊重し合える場所になって行ければいいなぁと思います。
そんな願いを込めて、手始めに、遊びまみれやガヤガヤBARでは「テレビ的なこと」の「表現」をしやすい場所にしています。
あとは、BARという特性上、飲食系の表現も結構しやすいかと(1日店長とかね!)
何年かかけてじっくりいろんな表現ができるコミュニティにしていきたいです。
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